OTPのブログ

東大工学部卒の20代会社員が、好きなテーマで気が向いた時に書く自由なブログです。

トロッコ問題の答えと考察 マイケル・サンデルの著書から

マイケルサンデルの「これからの正義の話をしよう」を読んで、トロッコ問題の答えと、それを現在起こっている事柄にいかに落とし込み生かすべきかについて、考えの整理がついたのでここに書き留めておこうと思う

現実に起こっている事柄として、例えば、1年前の農水省の元事務次官が長男を殺害した事件を覚えているだろうか。この事件を聞いて、殺人にも関わらず多くの人が父である元事務次官の正義を支持した。この問題に見える、我々が感じる違和感の答えが、マイケルサンデルの「これからの正義の話をしよう」にある。

この事件における、元農水次官の主張は以下である。
①「私の息子はどうしようもない。」
②「他人を殺したいと言う思想を持っている。」
③「私が息子を殺さなければ他人が殺されてしまう。よくない。」
④「私が息子を殺そう。」

ここで、ポイントになるのは③である。ここの是非の議論を深めないことは、非常に危険である。

ロッコ問題にみるサンデル氏の考え方

マイケルサンデルの本は、有名なトロッコ問題から始まる。
ロッコが線路を走っていて、進行方向に5人の作業員がいる。このままいくと轢き殺してしまうが、もう止まることはできない。別の線路には1人の作業員がいて、そちらに切り替えることもできる。さて、あなたは線路を切り替えますか、というものだ。
「幸福の最大化」を考えると、5人より1人を、となる。
ではその1人が自分の家族や友人だったらどうだろう。多くの人が「幸福の最大化」ではなく、「自由意志の尊重」に基づいて、5人を轢き殺してしまうのではないか。どちらを選択するかはおそらく割れるだろう。そこで重要になるのが「美徳の共有」である。
何を美徳とするかには、社会に一定の共通理解がある。このケースでいうと、「5人より1人を」である。この「全ての人は平等である」という価値観(美徳)に基づき、現代社会は成り立っている。選挙権は一人一票であるし、大規模災害の際に救助する順番を決めるトリアージュもこの考え方をベースに設計されている。しかし、これは果たして正義なのであろうか。

「全ての人は平等である」という価値観は絶対的に正義なのか

多くの人にとって、新宿駅ですれ違う人と、自分の肉親とでは、一人の価値観が違う。これは国家でも同様である。イギリスの首相であるボリス・ジョンソンがコロナに罹患した時、英国の最大級の治療が施され、一命をとりとめた。しかし、これが普通の一般人であったら、同じ治療が施されただろうか。京アニの放火大量殺人事件の青葉容疑者についても同様のことが言える。もし彼が、誰も殺さずにただあの重篤な火傷を負っていたら、果たしてここまでの治療が施されただろうか。人も金も有限である。どこかで優先順位がつくのは仕方がないことであるが、それであれば、これは明らかに「全ての人が平等」ではない。
一方で、選挙権は一人一票である。コロナ給付金は一人10万円である。これに、多くの人が納得している。
この社会には、「全ての人が平等である」という概念と、「全ての人が平等でない」という概念が、並行して存在している。

「1」という概念が持つ根本的な誤り

ここで重要になるのが、「1」という概念である。1人、1個、1匹、1件。これらは全て、同じなようで同じではない。大きいりんごと小さいりんごは、同じ1個でも同じではない。これは人間にも言えるし、一見同じに見える時間にも言える。アインシュタイン相対性理論で動くものは時間の進みが違うことを示したし、モノは厳密に言うと完全に停止することはできない。そもそも「停止」という概念が相対的なものである。1時間は、どれも違うのである。
数値は、相対的であり、絶対的な数値は現実には存在しない。なのに、あたかも絶対的なものとして我々は数値を扱う。これは「1」という概念を作った際に、人間が犯した根本的な誤りである。

ロッコ問題の正解

我々は小学校で、5>1とならう。しかし、これは正しくない。常に数値は相対的なものであり、5<1となるケースも存在する。それが、トロッコ問題でいう1人が肉親であったケースである。
つまり、トロッコの運転手にとって、この5+1人の価値が相対的に無視できるレベルであれば、5>1である一方で、1人の価値が相対的に大きかったりすると5<1となるケースも発生する、ということだ。これがサンデル氏が言う現代社会における「美徳」の概念であり、この概念が背景に存在することを認識しないと、トロッコ問題を解くことは難しい。この美徳は、社会を構成する個人個人で変わってくるし、常に変化し続けるものである。
しかし、おそらくこの問題の最も正義に叶う解は「選ばないこと」であろう。これが、「幸福の最大化」と「自由意志の尊重」の両者の共存を許容するということである。この例題は、どちらの選択もあまりにも極論すぎる。これは、サンデルの「どちらの考え方も突き詰めると危険である」という警告にある通り、どちらかのポジションを決めて選択することが、そもそもの間違いである。グレーであることを許容しなくてはならない。
自動運転のAIに、トロッコ問題をいかにプログラムするか、という議論もあるが、その答えは「何もプログラムしないこと」である。それで例え5人が轢き殺されることになったとしても、ここのプログラムはしてはいけない。

元農水次官の正義

彼の相対的な価値観は、他人>息子、であった。その判断をした背景にあるストーリーには多くの人が納得した。つまりそれは多くの人が考える「美徳」と合致したものであった。しかし、もし息子は真っ当だと彼が考えていたら、他人<息子であったかもしれないし、そうであれば息子がもし殺人を犯したとしても、彼が息子を事前に殺さないことは彼の正義である。そのストーリーが納得のいくものであれば、多くの人は彼が息子を殺さないという選択をした正義に、なんの疑問も持たないであろう。

社会の「美徳」に対する議論の重要性

殺人ですらも、所属する社会を構成する多くの人が支持する「美徳」に合っていれば肯定される危険性を孕んでいるのである。サンデル氏は、この「美徳」の議論をやめるな、と言っており、それがもっとも重要なことである。
サンデル氏の著書は、ハーバードの白熱授業で有名になったが、その中にこのような一幕がある。

サンデル氏「トロッコ問題について、なぜ君は5人を殺すことを支持するのか」
生徒X「これは多数派によるジェノサイドに繋がる考えだから、1人の方を選択して選ぶことはできません」
サンデル氏「5人を殺すことでジェノサイドが防げるのか」
生徒X「おそらく、そうです」

X氏の意見が、まさしくこの「美徳」の議論を徹底的に行うことが重要であることを示している。我々は、「幸福の最大化」を追求しすぎてはならないし、「自由意志の尊重」も同じく追求しすぎてはならない。なぜなら、元農水次官の考え方が、この社会に完全に受け入れられてしまった場合、殺人が許容され社会が崩壊してしまうし、かといって農水次官が行動を起こさなければ、数名、あるいは数十名の命が失われていた可能性があるからである。
社会を構成する全ての人が、どちらが正しいという判断が難しいことと、一定数の反対意見があることを理解して、「幸福の最大化」と「自由意志の尊重」の共存を受け入れ、白でも黒でもなくグレーとして社会が受け入れる必要があることを、理解しなければならない。

果たしてこの農水次官の持つ「美徳」の議論を、社会としてどう受容するかという議論をした人がどれくらいいたであろうか。ここの議論を意識的に行わなければ、この社会は全体として成熟していくことはないのではないか。
裁判は、無罪有罪を決め、量刑を決めるだろうが、我々はその判決とはまた別に、この問題が腹むグレーな部分を理解して、見守らなくてはならない。