なぜ日本は先進国となったか
なぜ日本はアジアで一早く先進国の仲間入りをしたのか。
これを考える前に、まず、日本はいつから先進国となったのかを考える。
日本はアジア唯一のG7加盟国である。
一方で、近年は国際社会での地位低下が言われて久しい。G7は有名無実となりつつあり、G20の方がはるかに重要な位置を占めている。中国の経済成長が著しく、日本は韓国にすら一人当たりGDPで抜かれようとしている。
現在、日本のGDPはアメリカ・中国に次ぐ世界第3位であり、一人当たりGDPは世界20位前後である。
アジアに位置するシンガポール・韓国・台湾・香港などは一人当たりGDPで2万$〜5万$であり、日本の3万$〜4万$に比肩する経済を持っている。
では、過去はどうだろう。
マイソン氏の調査(Maddison Project)によると、アジア各国の一人当たりGDPは下記グラフのように推移している。
明治政府樹立〜高度経済成長の終わりまでは、イギリスには遠く及ばないが、シンガポール・香港・日本が他国の2倍〜3倍程度の一人当たりGDPを持っていたことが分かる。
ただし、シンガポール・香港はイギリスの植民地であったし、その規模も日本と比較にならないくらい小さい。
下記グラフのように、中国やインドは国家としては突出した実質GDPを持っていた。
しかし、一人当たりGDPに変換すると上記グラフのように、日本とは2倍〜3倍程度違っていた。
出典:実質GDPの水準(こちらもマディソン氏の調査を元にしている)
以上から、明治政府が樹立されるまでは、アジア諸国と日本の間にさほどの違いはなかったが、その後アジアで最も存在感があったのは日本だったことが分かる。
まとめると、日本は、18世紀後半から第二次世界大戦まで、欧米列強には遠く及ばないが、アジアでは突出して強い経済を持った国家であった。
いつ日本は先進国の仲間入りを果たしたのか。
マディソン氏の「世界経済の成長史」によると、1820年時点での世界各国のGDPの割合はこのようであったようだ。
日本がアジアでも大国であったことが分かるが、中国・インドに比べると1/5〜1/10程度の経済規模しかない。
人口について見てみると、1820年の世界の人口が10億人であり、日本は3000万人であった。中国が4億人近く、インドが2億人近くであり、それに比べれば少ないものの、世界の3%を占めたことから大国であったことに間違いはない。
出典:1820年の世界(世界経済史 38) ( 歴史 ) - 世界日本化計画 - Yahoo!ブログ
アヘン戦争(1840-42)において、世界で圧倒的にGDPが高く人口が多かった中国がイギリスに負けたことは、いかに産業革命を進めたイギリスの国力が強かったかを物語っている。
産業革命を起こし国の生産能力を増強させることは、その国の経済を活性化させるのみならず、軍事力の強化にも直結する。
先進国の仲間入りをするのには必須であるということだ。
つまり、19世紀後半に産業革命が起こる環境であったことが、日本を先進国としたと言える。
列強の一員と世界から認められたのは日露戦争の後である。
そこで、開国から日露戦争までを時系列で整理すると、このようになる。
- ペリー来航(1853,54)によって、欧米列強と日本の文明の差に気付いた。
- 明治維新(1863)以降に当時の列強であった西洋諸国の制度・知識・技術を「富国強兵」「殖産興業」の名の下に積極的に取り入れた。日本における産業革命である。
- 日露戦争(1904-1905)に形式上は勝利し、列強の一員と認められるようになった。
つまり、1863年〜1904年の40年間において、日本では産業革命が急速に進み、先進国となったのである。
なぜ日本で産業革命が急速に進んだか。
同じアジアにおいても、中国では産業革命が起きなかった。
代表的な理由は下記の4つである。
- 個人・団体・政府がまとまった資本を持っていなかった。
- 中国の主産業は茶であり、茶は労働集約型産業であったため、その利益は広く国民へ還元され、資本が特定の個人・団体に備蓄されず、資本集約型産業への変遷ができなかった。
- 政府による徴収や犯罪の横行などによって、私有財産が保護されておらず、国内で資本を備蓄するのが困難であった。
- アヘン戦争・アロー戦争の敗戦に代表されるように、国家財政が乏しかった。
- 太平天国の乱(1851-64)に代表される内乱が多発した。
一方日本では、上記のような問題はなかった。
日本では、近江商人・京都商人・伊勢商人といった商人が江戸時代から資本を蓄えていた。
彼らは、明治時代に入ると三井財閥・住友財閥・鴻池財閥などの財閥を形成し、資本集中型産業を先導した。
また、江戸幕府の地盤を引き継いだ薩長土肥からなる明治政府には、すでに江戸幕府による官僚制度を中心とした行政体制が存在していた。
確固とした行政体制を礎に、伊藤博文・渋沢栄一・大隈重信などが欧米の技術を輸入しながら、富岡製糸場・八幡製鐵所などといった官営模範工場の建設を主導し、財閥に次々と払い下げていった。
さらに、日本は江戸時代初期から治安が安定していた。
江戸時代は平和であったため、軍事力は上がらなかったが、文明が栄え識字率は80%に上りそろばんを用いた算術が広まっていた。
庶民は資本主義における労働者として必要な能力を既に身につけており、資本集約型産業が発展する土台が整っていた。
つまり、産業革命とそれによる高度経済成長の土台はあった。
そこにいくつかの特殊要因が加わった。
19世紀後半は、日本の絹産業の輸出にとって追い風であった。
微粒子病によりヨーロッパの蚕業が壊滅的な打撃を受けており、清では太平天国の乱により生糸輸出はままならず、日本製の絹が競争力を持った。
また、日清戦争に勝利したことで、政権が安定し増税による政府予算の拡大が可能となり、公共投資が繰り返され、経済成長を加速化させた。
なぜ日本は先進国となったか
日本が先進国となった理由は、下記の2つに集約される。
- 江戸時代に産業革命の土台(行政制度・国民教育・資本家の台頭)が整っていた。
- 外的要因や戦勝といった追い風が重なった。
日本は第一次世界大戦でも大きな経済効果を得て国力を増していくが、昭和恐慌・世界恐慌に発端する中国侵略、それに対するABCD包囲網を経て、ハルノートからの第二次世界大戦開戦へと繋がっていく。